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ホーム > 教育・文化・スポーツ > 歴史・文化 > 文化・文化財 > その他の文化資源 > ふさの国 今昔 -過去から未来へ- > 05.大草の谷津田(やつだ)の景観と古代集落
房総半島でも特に下総地方では、現在でも農家の裏山にはクヌギやコナラの木が見られ、雑木や下草が刈られて明るい光が差し込む里山があります。そして、里山の下には自然の谷を利用した谷津田が作られています。澄んだ湧き水が静かに流れ、水生植物や小動物などが活き活きと育っています。こうした癒しの空間は、房総半島の原風景とも言えるもので、山岳地帯などでは見ることができません。自然と人間とが調和した伝統的な生活と文化の姿、それが里山・谷津田です。
現在でも残る里山・谷津田の姿は江戸時代に起源があると言われ、昭和の時代にも房総各地に見られました。しかし、最近では里山は、薪炭の供給や落葉による堆肥づくりといった農家の経済活動と密接に関わらなくなったため、以前の景観がかなり崩れてきています。また、谷津田も近代農法の普及により年々減少しており、千葉市でも現在60カ所程しか残っていません。
房総半島に初めて稲作が伝わったのは、今から約2,000年位前の弥生時代の中ごろです。特に木更津市や君津市など内房地域の遺跡からは、当時の水田跡の発見が相次ぎ、この地域がいち早く稲作を取り入れたと考えられます。しかし、その後、下総地方の谷に水田が定着するまでには長い年月がかかったようです。千葉市を流れる都川中流域には、現在でも残る「大草谷津田」があります。この周辺では弥生時代の遺跡はごく僅かです。しかし、古墳時代後半(今から約1,500年前)になると、谷を望む台地上に急激に増加しています。その後、平安時代(今から約1,200年前)になると、さらに上流の支谷まで遺跡が広がるようになり、多くの集落が営まれていたことが予想されます。すなわち、大草の谷に人々が本格的に水田をつくり始めたのは、古墳時代後半であり、平安時代には都川を上りながら、各地の山や谷の開発を活発におこなったと考えられます。
その後人々は、自然を大きく壊さずに、その恵みを利用して生産活動を行う創意工夫を続けていきました。それが現在でも、房総半島の原風景として残されているのです。
千葉市「大草谷津田いきものの里」
都川流域の古墳時代後半の集落跡
(千葉市海老遺跡(かいろういせき))
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