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ホーム > 教育・文化・スポーツ > 歴史・文化 > 文化・文化財 > その他の文化資源 > ふさの国 今昔 -過去から未来へ- > 02.県都・千葉市と千葉氏の館
県都・千葉市は、平成18年6月現在で人口約93万人、100万都市を目前とした発展をとげています。JR千葉駅前から千葉県庁までの街並みには、多くの店舗や銀行などが建ち並び、県内の商業活動の拠点となっています。
千葉県庁の所在地「市場町」の地名は、都川の川岸に市場があったことに由来し、江戸時代の絵図にも「市場」とかかれています。そして、絵図には、市場町の北側、大和橋で都川を渡った本町通り沿いから国道51号線(佐倉街道)周辺に、町並みが描かれています。この町並みは、鎌倉・室町時代の千葉の様子を記した記録『千学集抜粋(せんがくしゅうばっすい)』の内容と一致し、その歴史の古さを物語っています。千葉の地に町並みが古くから発達した理由は、都川の水運により「千葉湊」や東京湾とつながり、その一方で佐倉街道で佐倉方面へも結ばれる交通の要衝に位置していたためで、明治6年(1873)6月15日、印旛県と木更津県が合併し千葉県が成立した時に千葉県庁が置かれることになりました。
千葉市周辺は、奈良・平安時代には千葉郡に含まれ、平安時代末期(12世紀)には荘園「千葉庄(ちばのしょう)」が成立、そこを本拠としたのが房総を代表する武士・千葉氏一族でした。千葉氏は、平安京を築いた桓武天皇(かんむてんのう)の子孫で、平安時代末期の千葉常胤(ちばつねたね)は源頼朝を援助し鎌倉幕府を開くのに功績があり、彼の子孫は、戦国時代まで代々警察の役割を果たした下総国守護をつとめました。そして、鎌倉・室町時代に千葉の町並みの核となったのが千葉氏一族の「館」でした。その場所は、亥鼻(いのはな)の台地から都川周辺にあったと考えられ、亥鼻の猪鼻城跡では鎌倉時代の瀬戸の壺が出土、室町時代の大きな建物跡も発見されています。しかし、戦国時代には千葉氏の衰退とともに、本拠地は印旛沼に面した本佐倉城に移り、天正18年(1590)、小田原北条氏とともに滅亡します。
明治27年(1894)、古い千葉の町並みの北側に総武鉄道が開通し、千葉駅が建設されると、その駅前に新たな繁華街・栄町が作られました。かつて、千葉の町並みは、都川の水運と佐倉街道を背骨として作られていましたが、この後は、総武鉄道・国鉄を軸に飛躍的に発展することになります。昭和38年(1963)に国鉄千葉駅舎が現在地に移転すると、現在のJR千葉駅前の現代的な景観が作られることになり、県都・千葉市の玄関口なりました。
明治時代の都川と本町通り
現在の大和橋から眺めた本町通り
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