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ホーム > 教育・文化・スポーツ > 歴史・文化 > 文化・文化財 > その他の文化資源 > ふさの国 今昔 -過去から未来へ- > 31.小櫃川・小糸川流域の穀倉地帯と金鈴塚
小櫃川と小糸川は、水源の上総丘陵を抜けると狭い渓谷から一転、広い沖積平野の中をゆったりと蛇行する大河のような風情を醸し出します。人々は、川の両側の微高地(自然堤防)などに居を構え、背後の広大な低湿地を開墾して、一帯を見渡す限りの水田地帯に変貌させました。
また、小櫃川から小糸川にかけての海岸沿いの平野は、海岸線に沿って砂洲と湿地が幾重にも連なり、空から見ると縦縞模様のようになっています。この平野にも古くから人々が好んで住み着き、微高地上に住まいを構えて、隣接する低湿地はことごとく水田に拓かれました。
近年の市街地化や、旧日本軍による造成で風景は大きく変わりましたが、水田に臨む農村集落の面影は随所に残っており、県内きっての穀倉地帯としていまなお首都圏の台所を支え続けています。
この地域の水田化は早くも弥生時代にさかのぼり、君津市の常代(とこしろ)遺跡では、堰などの本格的な灌漑設備を備えていました。水田開発がとくに進んだ背景には、浦賀水道を挟んで東京湾を横断する水路の要衝として、他地域との交流に有利であったため、人々が集中して住み着いたことが関係していたようです。古墳時代には、こうした人々を統括するとりわけ強力なリーダーが現れ、小糸川下流に内裏塚古墳群、小櫃川下流の砂洲上には金鈴塚古墳を含む祇園(ぎおん)・長須賀(ながすか)古墳群が築かれました。
水田地帯にたたずむ富津市の内裏塚(だいりづか)古墳群では、県内最大の内裏塚古墳(5世紀中ごろ:長さ148m)をはじめ、大型の前方後円墳をいくつも巡り歩くことができます。内裏塚古墳群の石室に使用された房総の磯石は、およそ100km離れた埼玉県北部の行田市埼玉(さきたま)古墳群まで運ばれて使われたことがわかっており、当時の活発な海の交流をものがたっています。
木更津市の金鈴塚(きんれいづか)古墳(6世紀末ごろ)の出土品は、きらびやかな飾り大刀、飾り馬具、装身具など、質・量ともに東日本を代表する秀逸品です。愛らしい高音を奏でる「金鈴」は、金製品そのものが稀有な列島では異例の出土品です。これらは、当時の東国の首長が特別な地位にあったことをものがたるものです。
小櫃川・小糸川流域の広大な平野と太平洋・東京湾を通じた西日本との交流があって、先進的な農業と大古墳を築く技術が導入されたと言えるでしょう。
金鈴塚古墳周辺(木更津市長須賀)の砂州と水田地帯
金鈴塚古墳の「金鈴」
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