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更新日:令和6(2024)年2月28日
ページ番号:21012
名所・旧跡名 |
所在地 |
概要 |
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大多喜城 |
大多喜町大多喜481 | 本城は夷隅川の蛇行による曲流部に囲まれた台地にあり、後方には城山九十九谷をひかえ、厳重な縄張りをした城郭である。 城内は本丸、二の丸、三の丸と続き、二の丸に御殿役宅等があったが、天保十三年(1842)の火災で焼失したといわれる。 本丸跡、薬医門及び二の丸大井戸(城内井戸としては全国一大きいと言われている)は県の文化財に指定されている。 |
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渡辺家住居 | 大多喜町久保126 | 嘉永二年(1849)4月に大工棟梁佐次兵衛により建立された。 大多喜藩の御用金御用達をしていた江戸時代の町家。国の重要文化財に指定されている。 |
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大多喜水道水路 | 大多喜町大多喜 | 明治二年大多喜藩主大河内正質が城下の飲料水が悪く、小高半左衛門に命じて水道を作らせた。 水路の長さ5760メートル余り、うち掘り抜き穴約4キロメートル、人工15606人を要し5ケ月あまりで完成した。 現在の水道ができるまで約80年間利用され、千葉県最古の水道である。 |
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万木城跡公園 | いすみ市万木地先 | 戦国乱世の中にあって、不敗を誇った万木城。幾多の軍勢と刃を交えても堅固に守り通した山城であり、その城主は土岐三代と伝えられ勇猛を誇った。 現在、城はなく緑深い公園に姿を変えているが、展望台からみる眺望は、城主が天守閣から下界の戦況を伺った戦国の世を思い起こさせる。 |
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太東海浜植物群落 | いすみ市岬町和泉359番地先 | 九十九里浜南端の太東崎先端から南方海浜に沿った砂浜地域。 牧野富太郎博士の発見によるもので、わが国天然記念物史上初の国指定天然記念物に指定された。 記録では「海浜固有の植物群落であり特殊の生態を示しているこの群落は地理的に植物の種類が違い、発生の有様にも差異があり、わが国中部におけるこの種の代表である。」と記されている。 海蝕により当時より小規模となったが、多種類の海浜植物を観察できる。 |
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ドンロドリゴ上陸地 | 御宿町岩和田626 | 慶長十四年(1609)九月三十日(陽暦)夜半、南フィリピン諸島長官ドン・ロドリゴが任期を終え、マニラ港を出帆、メキシコのアカプルコ港へ帰還途中暴風に遭い岩和田の田尻沖で遭難した。 乗組員373名、溺死56名、生還317名と伝えられる。この事件を知った村民は総出で駆けつけ救出にあたった。 幸い領主本多忠朝の理解ある措置、将軍秀忠、殊に大御所家康の計らいにより翌年相模の浦賀からメキシコに送還された。 その後この事実を知った植野村(現勝浦市)出身報知新聞記者藤平権一が精査の上、当時の浪花村長浅野重雄に伝えたことが発端になり三国国交の黎明を永久に伝えようと、昭和三年十月一日、ドン・ロドリゴ上陸ゆかりの地に代議士森矗昶、浅野村長の発起により白亜の塔、日西墨三国交通発祥記念碑が建立された。 |
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官軍塚 | 勝浦市川津1394 | 慶應四年(1868)一月から翌年五月にかけての戊辰の役で、北海道函館の五稜郭に拠って官軍に抵抗していた旧幕府の海軍副総督、榎本武揚に対し、維新政府から鎮圧を命ぜられた津軽藩主が、実兄の熊本藩主を頼り肥後に援軍を要請した。 明治二年正月二日、援軍は米国汽船を雇って隊長寺尾九郎衛門ほか350人が乗船し、北海道に向かった。しかし、三日夜勝浦川津沖の岩礁地で、大暴風雨に遭い遭難してしまった。 地元、川津では住人を挙げて救助活動にあたったが130人の犠牲を出してしまう。この遭難者を埋葬し丁重に供養した場所が官軍塚である。 |
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おせんころがし | 勝浦市浜行川251地先 | おせんころがしにはいくつかの悲話が残されています。 豪族の一人娘おせんは日頃から年貢に苦しむ領民に心を痛め、強欲な父を見かねて説得したが聞き入れてくれません。 ある日領民が父の殺害を企てていることを知ったおせんは、父の身代わりになり、断崖から夜の海へ投げ込まれました。 翌日それが身代わりのおせんであったことを知った領民は、わびを入れここに地蔵尊をたてて供養しました。さすがの父も翻意したそうです。 |
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尾名浦(めがね岩) | 勝浦市松部1985-1地先 | 勝浦湾の西岸にあり、長い間の浸食と風化によってできた自然の洞です。 ここには、大漁の神稲荷神が古くから祀られ、初魚の生魚を供えて大漁を祈願します。 |
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鵜原理想郷 | 勝浦市鵜原1016 | 与謝野晶子も「おお、美しい勝浦・・」と驚嘆の声を上げた場所。大正時代、熊本の後藤杉久氏がこの海岸の後背地に高級別荘地を仕立て予約分譲を開始した。 当時の加藤友三郎内閣の閣僚らを招き園遊会を催し、有名な政治家から予約が相次いだが、関東大震災とそれに続く恐慌により計画は挫折。後藤は激動の嵐の中で生涯を閉じた。 |
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