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更新日:令和6(2024)年12月25日
ページ番号:8646
九十九里平野は、分水嶺が平野のすぐ背後に迫り集水域が狭いため、大きな河川がなく、水源に乏しい地域でした。両総用水は、昭和40年(1965年)、当時地域で不足していた水量を利根川から補給するために、新たに開かれた用水です。このため、両総用水だけでは、地域の営農に必要な用水を全て賄うことはできません。
必要水量に対し補給水は半分程度ですので、残り半分は、各地域内のため池や中小河川からの取水のほか、水田の排水路から再度ポンプでくみ上げて利用する反復水で賄う必要があります。全てを両総用水に頼るには、より大きな施設が必要となり、建設費や維持管理費が高騰してしまうからです。
建設当時の用水計画では、21,000ヘクタールの農地に必要な水量は、最大値が毎秒約16立方メートルに対し、地区内水源は毎秒約5立方メートルと、3分の1程度でした。不足する3分の2の毎秒約11立方メートル(ポンプ18時間運転に換算すると毎秒14.47立方メートル)を両総用水として利根川から補給したのが始まりです。
一方、現在の用水計画は、平成10年度(1998年)の国営変更計画書によると、両総用水が補給する毎秒約11立方メートル(ポンプ18時間運転では毎秒14.47立方メートル)は変わりませんが、受益である18,000ヘクタールの農地で必要な用水量の最大値は毎秒約24立方メートルと増えています。
これは、安定した農業生産と経営の確立を目標に、水稲栽培の機械化と水田で畑作物を導入するため、ほ場の大区画化と地下水位を下げる乾田化を進める中で、より多くの水が必要となるためです。
九十九里平野は、江戸時代には地引き網の盛況や塩田開発に伴い人口が増加したため、水田開発が大きく進みました。しかし、水田開発は海岸線に平行する砂丘間にできた湿地や湖沼を埋めるもので、それらは下流の水源としても利用されていたため、下流では水が不足し、開発された水田もザル田(砂地で水が抜けやすい田)や泥田で条件の悪い水田だったといいます。
不足する水源を補給する両総用水の開通に合わせ、昭和30から40年代(1950から1960年代)にかけて、受益地内では不整形な田を10アール区画(1000平方メートル)にするほ場整備が多く行われました。
両総用水の建設後、現在までに、区画を30アールや1ヘクタールに広げ、ほ場の再整備が進められた地区があります。それらの地区では、農地を担い手に集め、規模拡大による稲作労働時間の短縮、畑作物の導入による収益増、集落営農などの生産組織化・農産加工販売による雇用や収益増などの効果があがっている事例もあります。
両総用水の受益地内で、ほ場整備により区画の拡大と、営農組合で麦・大豆の集団転作を行い、みそやうどんの加工販売を行っている事例として、九十九里地域の北清水地区(横芝光町)や、利根川沿いの佐原市西部地区(香取市)などがあります。
両総用水の受益地内でパイプライン化を伴うほ場整備を行う場合は、複数水源を1箇所にまとめてから各水田に送水することが必要となります。水源としては、両総用水、地区内のため池用水、河川水、水田からの排水の反復水などがあり、集める場所は、ため池やファームポンド等が考えられます。
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