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更新日:令和6(2024)年5月20日
ページ番号:315210
(いなばもくさいはか)
県指定史跡
昭和49年3月19日
山武市成東2698(元倡寺)
江戸時代の学問といえばまず儒学である。なかでも朱子学派は封建道徳の理論的基礎として大いに栄えたが、その一派をなす山崎闇斎(やまざきあんさい1618~1682)の学問は、崎門(きもん)の道学と呼ばれて栄え、後世の尊皇思想の源流となった。
闇斎の弟子で崎門三傑の一人が佐藤直方、そのまた弟子の藤門三子の一人稲葉迂斎(うさい)の子が黙斎である。黙斎は、享保17年(1732)江戸日本橋浜町に生まれ、16才で江戸本所石原の野田剛斎に学んだ。
当時、成東、東金周辺の農民の間で学問熱が起こり、特に熱心な8人は迂斎に師事し、「上総八子」とよばれ、上総道学の中核となった。彼らの招きで、黙斎は21才のときに「姫島講義」という冊子を作り、大きな感銘を与えたといわれている。26才で江戸若松町で門弟の育成に務め、29才の時父が死んだため、父の門人の指導にもあたった。黙斎の学問は父以上といわれたが、自由人的性格で、幕府からの招きも固辞したといわれる。
天明元年(1781)50才の時、現在の大網白里市清名幸谷を訪れ、以後、この地で研究と門弟の教育につくし、寛政11年(1799)68才で永眠、墓は、元倡寺本堂左手裏山の墓地に建っている。
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