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更新日:令和5(2023)年11月30日
ページ番号:404857
高校生区分
社会福祉法人千葉県身体障害者福祉協会理事長賞
筑波大学附属聴覚特別支援学校高等部1年
猿渡 巧(さるわたり たくみ)
世間の目に、我々、障碍者はどのように映っているのだろうか。
SNSの普及などに伴い「ガイジ」、「可哀想」というイメージは健常者の中で少しずつ塗りかえられて行っているのではないかと思う。しかしながら、やはり、いざ対面するとなると、殆どの人は自分とは違う異質の者に対して、どのように接すればよいか分からず結局、大したことをしてあげられない。見て見ぬ振りをする。そのような者が大多数なのではないかと思う。恐らく、健常者も怖いのだろう。何せ相手は、自分とは違う異質の者なのだから。
そしてそれは、私にとっても同じなのである。というのも、私は、聴覚障碍者であるが故に、これまでの人生を殆ど健常者と関わることなく過ごしてきた。スポーツクラブに通ったり、地域活動に参加したりもしていた。しかし、スポーツクラブでは常に一人。話しかけられることもなければ話しかけることもない。地域活動もそうだ。誰かに話しかける際には必ず聴覚障碍の無い弟を解す。自分から接しに行くのが何より怖いのである。どういう顔をされるだろうか。相手の言っていることがもし聞き取れないで何回も聞き返したら迷惑するだろう。等々、色々な不安要素が頭をもたげるのである。自信が障碍者、即ち、異質の者であることを自覚しているからこそ、腰が引けてしまうのである。耳が聞こえないというだけで、こんなにも消極的な思考になってしまう。
しかし、その聴覚の障碍が枷にならず、様々な人とコミュニケーションをとることのできる場所がある。SNSである。言葉が視覚化されるので、聞き取れずに迷惑をかけるような心配も無ければ、画面の向こう側の相手に自分が聴覚障碍者であることがばれることもない。小心者で臆病者であった私にとって、この上なく過ごしやすい場所である。自分が本来在りたかった姿でいることができる。とても素晴らしいことだった。そんなある日、ある一人の女性ユーザーと出会った。出会い自体は、よくある好きなゲームが同じで親近感が沸いただけという、至って凡庸なものだった。
その日から、彼女とは頻繁にネットで会うようになり、一カ月が経った頃には、殆ど毎日、決まった時間に会うまでになっていた。純粋に、嬉しかったのだ。聴覚障碍者である自分が、健常者と、滞りなく会話を繰り広げることができたのが。今までの自分では有り得ない世界だった。凄く、嬉しかった。
しかし、同時に背徳も感じ始めていた。彼女に自分が障碍者であることを黙っているのが申し訳なくなってきた。一方で、障碍者であることを伝えるのも怖かった。彼女からの私を見る目が変わるのではないだろうかと考えると辛かった。だが、どうしてだか、そこまで思い悩むでもなく彼女に打ち明けた。きっと受け入れてくれると思っていたからだろうか。それとも、SNSだから離れていったとしても別に構わない、リアルの友人という訳でもないのだから。とでも考えていたのだろうか。正直、よく分からない。それでも、彼女が受け入れてくれたということだけは確かだ。それどころか彼女は、
「障碍があるからなんだというのだ。周りのことなど気にせず、普通の、健常者と同じように過ごせばいいと思う。同じように扱われるべきだと思う。」
と、嬉しいことを言ってくれた。
彼女との関わりを通して、自分に自信が持てるようになったと思う。彼女のように、障碍者に対して差別的イメージを持たず、普通の人と同じように接する。そんな社会の実現を望む声を少なくないと思う。冒頭でも話したように、SNSの普及などによって少しずつ社会全体からの障害者に対する考え方は変わりつつある。私たち個人個人に大きな力はない。しかし、SNSで啓蒙をするなどしてそして、それが多くの人間に伝播していけばこの先、何年、何十年、或いはそれ以上の年月が必要になるかもしれない。それでも、いつの日か、全ての人間が差別を受けることなく、受け入れられる社会が実現することを願っている。これは私だけでなく、他にも、多くの人が願っていることだと思う。だから、より多くの人に知ってもらいたい。そうしたら、やがては、皆が、多少の不自由はあるものの、自分の在りたい姿でいることができる。そのような社会になるだろう。
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