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ホーム > 教育・文化・スポーツ > 歴史・文化 > 文化・文化財 > 文化遺産 > 「ちば遺産100選」と「ちば文化的景観」 > 「ちば遺産」100選(3)印旛沼の恵みとニュータウンのゾーン
更新日:令和5(2023)年12月26日
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立身(たつみ)流は、戦国時代の永正年間(1504~1521)に伊予国に生まれた立身三京(たつみさんきょう)によって始められたと伝えられ、江戸時代に佐倉藩(現佐倉市)で伝承された。居合と剣術を主軸としながらも、ヤワラと鎗術(そうじゅつ)、棒術、長刀(なぎなた)術、四寸鉄刀(しゅりけん)、捕縄術(ほじょうじゅつ)なども含む実戦的な総合武術である。
成田山新勝寺には、豪壮で華麗な江戸時代の建造物が数多く残っている。元禄14年(1701)建立の光明堂(こうみょうどう)は、もとは本堂で、安政5年(1858)建立の釈迦堂も昭和43年まで本堂として多くの参詣者を受け入れてきた。正徳2年(1712)に建立された三重塔は、当初の彩色が復原されている。参道にある仁王門は文政13年(1830)の建立である。これらの建物には、中国故事や伝説を題材とした彫り物が数多くあり、見所の一つとなっている。
縄文時代前期、約6000年前の墓と思われる穴(土壙)から出土した遺物である。墓と思われる穴は、集落の中央に約250カ所が集中して掘られており、そこから、人頭形土製品や鉢状の土器の他、土製の耳飾、玉類、石匙(いしさじ)、石斧などが出土している。中でも人頭形土製品は、人間の顔面から頭部を立体的に表現した、全国的にも貴重なもので縄文時代の葬送を解明する上で重要な資料である。
旧堀田家は、明治23年(1890)に、佐倉藩最後の藩主である堀田正倫(ほったまさとも)が建設した。材料のほとんどは東京から取り寄せられ、職人も東京から招かれ建築された。質実な中にも、七宝焼きの引手(ひきて)や更紗(さらさ)の壁など典雅な意匠を取り入れ、明治時代の華族の家の様子を十二分に物語る。芝生の庭には灯籠や飛び石等を配置し、前方に流れる高崎川や対岸の台地、さらには富士山を望む眺望に恵まれている。
大正7年(1918)に完成した洋風建築である。レンガ造、2階建て、外壁にはタイルを張っている。ドイツ留学もした矢部又吉(やべまたきち)による設計である。佐倉町役場、市立公民館、市立図書館などの歴史を経て、現在は市立美術館のエントランスホールとして使われている。建物の各所にドイツから得た意匠を見ることができる。
主に佐倉藩の藩校・成徳(せいとく)書院の時代に収集された国書・漢書・洋書からなるぼう大な書籍群である。日本の近代化に貢献した英米書444冊や蘭書(オランダの書籍)335冊をはじめ、江戸幕府が勧めた儒教に由来する孔子像や漢籍(かんせき:中国の書籍)6178冊など、近世から近代の、まさに智の体系を示す貴重な資料である。
佐倉順天堂は、天保14年(1843)に佐倉藩主・堀田正睦(ほったまさよし)により佐倉に招かれた蘭方医(らんぽうい)・佐藤泰然(さとうたいぜん)が開いた塾兼病院である。安政5年(1858)に現在地に移転し、その当時の建物の一部が残っている。日本各地から塾生が集まり、高度な医学を実地に学んでおり、後に明治の医学界をリードする多くの人材が育成された。記念館の中には、往時の貴重な資料が保存・展示されており、江戸時代の病院建築としても貴重である。
本佐倉城は、文明年間(1469~1487)に千葉輔胤(ちばすけたね)によって築城され、16世紀前半には北条氏の支配下にあって現在に残る城の形が作られた。10の郭(くるわ)で構成され、城山(しろやま)・奥ノ山(おくのやま)・倉跡(くらあと)と呼ばれる郭が城の中心部であったと考えられている。千葉氏最後の居城として16世紀末期まで使われた。
印旛沼の周囲には竜神にまつわる伝説が多く残されている。この泉にも、平安時代初期の大同年間(806~809)に干魃があり、村人が餓死寸前というときに、諸国を旅する僧が竜神に雨乞いをして雨を降らせ、村人を救ったという伝説が残る。雨とともに落ちてきた竜と弁財天を祭った祠(ほこら)が、木立にかこまれた池の中に建てられている。
像高54.3cmの中尊をとり巻くように、像高38cmの立像を配する七体の薬師如来像からなる七仏薬師である。七仏薬師を供養する修法(すほう)(仏教の儀礼)は奈良時代から営まれるが、古い像が遺された例は少なく非常に貴重である。平安時代末期に制作されたと考えられ、寺号(じごう)となった松虫姫の伝説とともに信仰を集めている。
下総国最古の寺院・龍角寺は、7世紀後半に創建された。境内には一辺10.8mの基壇(基礎部分)をもった塔の心礎(中心柱の礎石)が残される。本尊である銅造薬師如来坐像は、白鳳時代に制作された東日本屈指の古い仏像である。わずかな微笑をたたえるその表情からは、古代人が寄せた信仰をしのぶことができる。
印旛沼北岸台地には、100基を超える龍角寺古墳群が所在する。なかでも岩屋古墳は、一辺約80m、墳丘高約13mの規模をもつ方墳で、東日本1位の大きさを誇る。岩屋古墳の近くには、埴輪を復元した101号墳等があり、房総のむら風土記の丘資料館では、これら古墳群と古代印旛地方の歴史を学ぶことができる。
麻賀多神社は印旛沼南岸の八千代市から成田市にかけて18社があり、その中心となる神社が、成田市台方(だいかた)の麻賀多神社である。指定地内には古くから知られた「公津の大杉」をはじめ、幹囲が3mあまりのスギが20数本ある。公津の大杉は樹齢1200年とも1300年とも言われ、樹高40m、幹周約8mを測る。
千葉県北部に広がる下総台地は、約45~8万年前に堆積した地層・下総層群が基盤となっている。下総層群の中の木下(きおろし)貝層は、約12万年前に古東京湾と呼ばれる広大な湾に堆積した砂の層で、当時、海中にいたイタボガキやカシパンウニ、バカガイ、キタノフキアゲアサリなどの化石が観察できる。木下貝層は表面が堅くしまっていることが特徴で、栄町岩屋古墳(国指定史跡)の横穴式石室や石灯籠など、貝層を切り出して作ったものが多くあり、古くから石材として利用されていたことがわかる。
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