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更新日:令和6(2024)年2月19日
ページ番号:5989
旧大多喜女子高等学校の建つ高台を「雷台(いかずちだい)」とよんでいる。なぜこのような地名でよばれているのか、こんな話が伝わっている。
天正十八年(一五九〇年)の正月であった。根古屋城主(ねごやじょうしゅ)正木大膳時堯(まさきだいぜんときたか)は、
「いざ、ゆくぞ、時堯(ときたか)のために死ぬる覚悟(かくご)の者のみ、わがあとにつづけ」
とさけぶと、百騎(き)の兵を引きいて万木城(まんきじょう)に向かった。
ちょうど、現在の夷隅町苅谷(いすみまちかりや)にさしかかったときだ。
「正木勢(まさきぜい)を一人残らず討(う)ちとれ」
冬枯(ふゆが)れした茅(かや)の間から、万木の土岐勢(ときぜい)七十騎(き)が攻(せ)めてきた。不意(ふい)の襲撃(しゅうげき)に正木勢はあわてた。万木勢は苅谷原(かりやばら)を縦横(じゅうおう)にかけめぐり、大将の正木大膳時堯(ときたか)をめがけた。
「逃(に)げるな、ふみとどまれ。御大将(おんたいしょう)をお守りするのだ」
正木軍は必死に抵抗(ていこう)したが、不意の襲撃に、みなあわてた。
「退(ひ)け、退(ひ)け」時堯(ときたか)はさけんだ。
万木勢も
「大将の首をとった者には、ほうびをつかわすぞ。追え」
さげびながら必死に追った。
正木軍は逃げに逃げた。しかし、とうとう時堯(ときたか)は万木勢に取り囲まれてしまった。時堯(ときたか)は自慢(じまん)の薙刀(なぎなた)をぶるんぶるんふりまわし、敵兵(てきへい)をなぎたおした。しかし、次から次へと敵兵が襲ってくる。
房総の勇者といわれた時堯(ときたか)も死を覚悟した、その時だ。暗雲の空から不意に雨が降り出し、稲妻(いなずま)がはしった。あたり一面、銀色に光ったかと思うと
ゴロゴロ ドカーン
すさまじい音がした。
突然の、落雷(らくらい)に万木勢は
「退(ひ)け、退(ひ)け・・・」
今度は万木勢が退却(たいきゃく)し始め、時堯(ときたか)は九死に一生を得た。
そして、勝敗を決することなく両軍とも引き上げた。
この場所が雷台である。今から約五百年ほど昔、根古屋城の正木勢、万木城の土岐勢が戦った所だ。またこのあたりは「舟子原古戦場(ふなこばらこせんじょう)」ともよばれ、昔このあたりが戦場であったことを今に伝えている。
おしまい
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