ここから本文です。

更新日:令和6(2024)年2月19日

ページ番号:5991

(大多喜町)中村伝治と『品の川用水路』

内容

老川小学校下の道路わきに『水路の碑』が建っている。碑にはこんな話が伝えられている。

 

老川地区の小田代あたりは、養老川が深い深い谷をつくって流れている。そのため川から水を汲(く)み上げることは困難(こんなん)であった。溜池(ためいけ)をつくり雨水をためて農業に使っていたので、雨の少ない年は水に困っていた。

そこで中村太左衛門(なかむらたざえもん)は土地の高低差を考え、会所(かいしょ)地区から小田代(こただい)地区へ用水路(ようすいろ)を引くことを考えた。しかし建設技術や費用を考えると、なかなか工事に着手できなかった。時間だけが過ぎ、太左衛門は病で亡くなった。

 

明治十年(一八七七)六月、アジサイの美しい季節であった。中村伝治(なかむらでんじ)は祖父太左衛門の遺志(いし)を継(つ)ぎ、工事にとりかかった。会所から小田代まで約六千メートルの水路を建設する大工事である。

 

「これで水に困らなくなるぞ」

「米や野菜もたくさん穫れる」

「寄付(きふ)を集め、協力しよう」

みんな、喜んで水路建設に協力した。

しかし、険(けわ)しい山、深い谷が工事をおくらせた。おまけに疲労が重なってケガする者が出てきた。すると、

「こんなことなら水路なんかいらない」

「ケガをしたら、もともこうもねえ、やめた、やめた」

「工事に協力できねえ」

困難(こんなん)な工事に、一人また一人とやめていった。工事は長引き、資金も底をついてきた。

やがて発起人や世話人までもが手をひき、伝治一人となった。しかし、伝治はあきらめなかった。田畑を売って資金を作り、工事を続けた。

一年がまたたく間に過ぎ、またあじさいの季節になった。村人たちは伝治のひたむきな姿に心をうたれ、また伝治に協力した。

 

明治十一年十月に水路は完成した。粟叉・小沢又・面白・小田代の耕地約十八ヘクタールは、雨の少ない年でも豊かな実りをもたらす耕地に生まれ変わった。

 

明治四十五年、伝治の功績を讃える碑が建立され、後世に偉業を伝えている。用水路は今なお『品の川用水路』と呼ばれ、耕地に水を運んでいる。

 

おしまい

 

出典・問い合わせ先

  • 出典:「広報おおたきNo.428」(「ふるさと民話さんぽ」斉藤弥四郎)
  • 問い合わせ先:大多喜町外部サイトへのリンク

ページの先頭へ戻る

お問い合わせ

所属課室:環境生活部文化振興課文化振興班

電話番号:043-223-2406

ファックス番号:043-224-2851

※内容については、お手数ですが「問い合わせ先」の各市町村へお問い合わせください。

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?