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更新日:令和6(2024)年2月19日
ページ番号:5987
「豊臣(とよとみ)方をたおす。みなのもの大阪に集合せい」
元和元年(1615)、徳川家康(とくがわいえやす)は諸国の大名に号令をかけた。大多喜城主、本多忠朝(ほんだただとも)のもとにも出陣命令(しゅつじんめいれい)がとどいた。
大多喜を出発する時がきた。空は晴れ、忠朝の勝利を予期しているかのようだった。
「これから豊臣軍を倒すために大阪へたつ。この忠朝に続け」
大多喜城の金の鯱(しゃちほこ)が初夏の日にてらされ、勝利を祈るかのように忠朝軍を見送った。当時、大多喜からは睦沢(むつさわ)を経由して江戸に出るのが慣(なら)わしだった。
ちょうど、大多喜と睦沢との境にさしかかった時だ。道端(みちばた)の藪(やぶ)がガサガサなった。忠朝が見ると、イタチがチョロチョロと忠朝の馬の前を横切った。(むむ不吉(ふきつ)な)忠朝はしばし考えた。
「・・・一同、引き返す」
と大声で叫んだかと思うと手綱(たづな)を引いて馬の向きをかえた。隊も忠朝の後につづいて引き返した。そして、長南(ちょうなん)との境の小土呂坂(おどろざか)の藪(やぶ)を切り開き、江戸に出て、大阪へ向かった。
馬(駒)を引き返したのでここを『駒返し坂(こまがえしざか)』と呼ぶようになった。
大阪に着いた忠朝は徳川軍の先陣を切って勇猛果敢(ゆうもうかかん)に戦い七十四人もの敵(てき)を斬(き)った。その時血に染まった戦場を一匹のイタチが駈(か)けぬけた。忠朝の脳裏(のうり)に夷隅川の流れ、涼風にふかれる緑の田んぼ、そこで働く大多喜の人たちの姿がよぎった。
その瞬間(しゅんかん)、敵兵(てきへい)の「覚悟(かくご)」という声が聞こえたかと思うと忠朝は脇腹(わきばら)を槍(やり)でさされ、馬上からドッとくずれ落ち息(いき)たえた。忠朝、三十四歳であった。
戦いが終わった。家来たちが忠朝の亡骸(なきがら)を抱いて、家康(いえやす)の前を通った。家康は涙を流し
「忠朝、よくぞ勇敢(ゆうかん)に戦った。父忠勝に劣(おと)らぬ武将であるぞ。おまえの死を無駄(むだ)にせず、平和な国をつくるぞ」
と労をねぎらい、平和な国づくりを約束した。大多喜城主、本多忠朝は、討ち死にしたが、戦い(大阪夏の陣(おおさかなつのじん))は徳川家康が勝利し、以後、徳川の時代は長く続いた。
忠朝の亡骸(なきがら)は両親と共に、大多喜町新丁の良玄寺(りょうげんじ)の墓地に眠っている。
おしまい
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