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更新日:令和6(2024)年2月19日
ページ番号:5963
勝浦市と大多喜町の境に「四つ石(よついし)」という地名がある。この地名が「四つ石(よついし)」と呼ばれるようになったのは、こんな話からだ。
今から八00年ほど前のことだ。伊豆(いず)の「石橋山(いしばしやま)の戦い」で敗れた源頼朝(みなもとのよりとも)一行は千葉県に逃(の)がれてきた。
ちょうど今の勝浦市佐野(さの)の集落に入ったときだ。
パカッパカッパカッ・・
パカッパカッパカッ
馬の走る音が聞こえてきた。数十頭の馬だ。
「追っ手だ。平家の武者にちがいない。川に降りろ」
頼朝がさけぶと、夷隅川に馬を進めた。川を渡ろうとしたのだが、増水(ぞうすい)しており、とても馬で渡ることができない。頼朝がちゅうちょしている間にも、追っ手は近づいてくる。
「まてー、そこの武者達(むしゃたち)は源氏ではござらぬか」
「頼朝の頭領(とうりょう)、源頼朝殿とお見うけもうす」
「逃げるとはひきょうなり」
「正々堂々、勝負いたせ。われらは平家の者なり・・・」
平家武者のさけび声が近くに聞こえる。
多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)、ここで戦えば頼朝軍の負けは明らか。頼朝は覚悟を決めた。
「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、われらを助けたまえ」とさけび、馬をおどらせ夷隅川にとびこんだ。すると不思議なことに、四つの大きな石が川底からせりあがって来るではないか。源頼朝は四つの大きな石を蹴(け)って向こう岸に渡った。
頼朝一行が渡り終えると、四つの石はまた川深く沈んでいった。おかげで、頼朝一行は命びろいすることができた。
この近くには「槍折坂(やりおりさか)」という地名もある、これは頼朝がこのとき持っていた槍(やり)を折ってしまったことから、「槍折坂(やりおりさか)」という地名がついたと言い伝えられている。ほかにも、頼朝が身を隠(かく)したという洞穴(どうけつ)も残っている。
その後、頼朝は大原に館(やかた)を構(かま)えていた上総介広常(かずさのすけひろつね)や千葉城の千葉常胤(ちばつねたね)の助けもあり、平家を滅(ほろ)ぼした。そして鎌倉に幕府を開き、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となった。
おしまい
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