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更新日:令和6(2024)年2月19日
ページ番号:6008
勝浦海岸八幡岬の先端に近い断崖の松の根方に、「お万布ざらし」という名所があります。
いまから約四百年ほど前のことです。織田信長が京都の本能寺で、明智光秀に討たれた「本能寺の変」の五年前になります。
物語で名高い里見八勇士の一人、勝浦城の城主正木頼忠の娘として、お万は生まれました。美しい景色にかこまれた勝浦城で、お兄さんの為春と慈愛深い両親のもとで、すこやかに美しく成長しました。
天正十八年、お万が十三歳になったころのことです。徳川家康が関東一帯を支配するようになりました。それにつれて勝浦城も家康の家臣に攻められて、城を追われることになってしまいました。
旧暦の八月十五日といいますから、いまでいえば九月十五日です。満月が雲にかくれ、草むらに虫の声も聞こえなくなったような夜のやみにまぎれてお万は手をひかれ、父や兄たちとの別れの悲しい涙にぬれながら、こっそりと城をぬけでました。くらやみの中を必死にのがれました。そして、岬の先端に枝をのばした松の根方に、用意をしておいた白布をまるで滝のようにさらし、それを伝わって海の上におりていきました。
海にはひそかに待っていた家来の小舟がありました。それに乗って伊豆の方面へ逃げのびたのです。
敵方の追っ手をのがれのがれしながら、身分をかくしての苦しい流浪の旅の日がつづきました。行く先々では、お万の美しさとかしこさが、いつも村の人たちの眼をみはらせました。
伊豆の河津浜奥「峯」の地方には、次のような俗謡が残っています。
おまん髪の毛七尋八尋
三つつなげば江戸までとどく
牛につけても十駄にあまる
文禄の末ごろ、徳川家康は江戸表へ入国をしました。その途中で三島というところを通りかかったとき、美しいお万とめぐりあったのでした。
こうしてお万は、家康のもとへひきとられました。お万と家康の間に生まれた第一子の長福丸は、のちの紀州頼宣です。頼宣の婦人は加藤清正の娘で、頼宣は、とくに名君として慕われました。第二子の徳千代丸は、のちの水戸頼房です。水戸光圀は、お万の孫にあたるわけなのです。
光圀は、七才から江戸表で養育をうけました。成長してからのすぐれた考えや、信念と勇気にみちた実行、深い信仰心などは、幼いころにおばあさんのお万からの教えによるものといわれています。
「お万の布ざらし」のいい伝えを懐かしみながら、浜勝浦の漁師の家では、旧暦八月十五日になりますと、花見の団子をつくり、これを縁のはじに出さず、家の中にこっそりと飾りつけます。城の落ちた夜にあたりますので、月見は遠慮するという風習もあったそうです。逃げ落ちていったお万母子へのやさしい心づかいの残りとして、この地方にひきつがれてきました。
別の道を逃れて行った兄の為春も、のちになって三浦長門守という三千石どりの立派な身分になりました。
勝浦市内には、つぎのようなむかしからの唄が残っています
一つとセー
人も知ったるおまんさま
生まれは上総の勝浦で
城主正木の息女なり
(二つとセーから
九つとセーまでつづき)
十とセー
ところは身延の大野山
七十七才にてせんげんする
いまだに残る霊地なり
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