ここから本文です。
更新日:令和6(2024)年4月26日
ページ番号:8568
旭市、匝瑳市、東庄町にまたがる「干潟八万石」と呼ばれる約5100haの耕地は、1670年(寛文10年)の干拓により湖から農地へと姿を変えました。水田の耕土を掘ると海性の貝殻に会うことができます。
これから、この耕地の歴史を簡単にお話します。
江戸幕府も安定期を迎え人口の増加に対し十分な農地がなかったので、お米の価格が上がり続けていました。このため、白石治郎右衛門と辻内刑部左衛門は、鐵牛(てつぎゅう)禅師の助力を得て幕府に干拓を願い出て、現在の「新川」を掘り、農地が生まれました。
さらに排水を良くするため、干拓地内に鏑木川、五間川、七間川等を掘り、「惣堀(そうぼり)」と呼ばれる干拓地を囲む用排兼用の水路やため池も整備しましたが、干拓地に必要な水を十分に得ることはできませんでした。また、新川の掘削によって、下流の干拓地より標高の高い水田では地下水位が低下し水不足となりました。
干拓地の水害を除くためには下流の用水問題も解決する必要がありました。大正12年からは、新川を掘り広め、吉崎堰、駒込堰、干潟堰を造り地下水位の低下を抑えましたが、大正13年の旱魃(かんばつ)を契機に、野口初太郎は利根川からポンプとトンネルなどで用水を引くことを考え、県営大利根用水事業として昭和10年に着工し、干潟耕地や海岸地帯を旱魃から守りました。
その後施設は全面的に改修され、東総地域の農業を支えています。
干拓より350年余りを過ぎた今、区画整理により新たな農地に生まれ変わっています。
【干拓後の「椿の海」の様子】
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください