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更新日:令和6(2024)年1月22日
ページ番号:314147
利根川沿いの集落には、昔から「水場(みずば)」とか、「水禍(みずか)」という言葉があります。これは、洪水にみまわれた場合、農作物に被害のある利根一帯の総称です。
利根沿岸では、昔から三年に一度は水が出て、不作なのが通例だったのです。
しかし、その内でも、最もひどかったのが、明治43年(1910)の大洪水です。
この年は、春から日照り続きで、ようやく田植えも終り、早生種が色づき始めて、お百姓さんもやっと一安心した、8月上旬のことです。
毎日、辰巳(東南)の風が吹き、厚い黒雲が、遠くに見える日光連山に向って、疾風のように飛んで行きます。
こんな天候が、7日も続きました。その内に「西浦(霞ケ浦)が見えるぞー」
と、誰かが叫びました。霞ケ浦が見えるのは、洪水の前兆です。利根川上流で大雨が降りそれが下流目指して、一気に押し寄せたのです。
大洪水の到来です。
水は、一夜にして北浦から浪逆(常陸利根川)へと押し寄せ、さしもの、広い一ノ分目を始めとする新田の耕地も、水びたしになってしまいました。
人々は、ほうほうの態で、表財道具や食糧等を積んで、利根川の大堤防(左岸堤防)に避難しました。
しかし、水は一向に引く気配もありません。
人々は、堤防に合掌作りの小屋を建て、水の引くのを待っていました。
土用中というのに、毎日強い北風が吹き、水没した家の見回りにも一人では行けない程の大水です。
この最中に、急に産気づいた人があって、やむを得ず、ごうごうと流れる大水の中を、たらいを乗せた舟で、本村の親戚まで送り届けるというようなこともありました。それからは、子供達が言うことを聞かないと、「たらいに乗せて流してしまうぞ」と言っては、黙らせたそうです。
又、避難中、食糧は、国等の援助でなんとかしのげたものの、困ったのは飲料水でした。しかし、時の一ノ分目区長、小山田注連松(しめまつ)さんは、区内から屈強な若者4名を選び、毎日、四斗だる(約72リットル)4本に、井戸水をつめて、運んでくれたということです。
その当時は、今の根地耕地も、一面の遊水地帯でした。ですから、一ノ分目を出た舟を、一旦、利根川右岸につけ、堤防の上を四斗だるをかつぎ上げ、本流に用意した舟へ移してから、濁流の中を避難している人達の所まで運んだのです。今考えても、それは、命がけの大仕事でした。そのお陰で、避難した人達は救われました。
そうこうして40日余り、さしもの大水も引き、皆、懐しのわが家に、やっと帰ることができました。しかし、青いものとて何もなく、正に、米一粒さえありません。わずかに、開拓記念の松だけが、秋風に、ひょうひようと鳴っているばかりでした。
人々は、わずかな留守番を残し、親戚や知人のつてを求めて、皆、働きに出ました。そして、当座の生活費を稼ぎ、この危機を乗りきったのです。
今でも、旧家に行きますと、床柱にその時の水跡がはっきりと残っています。
あれから70年たちましたが、利根川にも、今は立派な堤防が作られ、治水エ事も進んで、洪水にみまわれることもなくなりました。
現在、利根川の堤防に立ちますと、黄金色の穂が波を打つ稲田が、どこまでも広がっていて、昔のそんな苦労話がまるで夢のようです。
「水場」とか、「水禍」と言われる言葉も絶えて久しく、知っているのは老人ばかりとなりました。
(田谷 宜久)「小見川のむかしばなし」より
〔香取市〕
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