史跡の新指定及び追加指定について(令和元年6月21日)
発表日:令和元年6月21日
教育庁教育振興部文化財課
国の文化審議会は、香取市に所在する「下総佐倉油田牧跡」と酒々井町に所在する「墨古沢遺跡」を史跡に新指定すること、また富津市に所在する史跡「内裏塚古墳」の一部を追加指定することを、令和元年6月21日(金曜日)に文部科学大臣に対し答申しました。
この結果、官報告示の後に、千葉県内の史跡(特別史跡1件を含む)は30件となる予定です。
1 下総佐倉油田牧跡の史跡の指定について
種別及び名称
- 史跡「下総佐倉油田牧跡」(しもうささくらあぶらだまきあと)(香取市)
所在地
概要
- 乗用馬等の養成のために江戸幕府が直轄で経営した牧の一つである。江戸時代の房総半島には、北西部に小金牧が、北東部には佐倉牧、南部には嶺岡牧が整備され、さらに佐倉牧は七つに分けられ「佐倉七牧」と呼ばれていた。油田牧は佐倉七牧の北東端にある。東西約4.7km、南北約4.6km、面積は10.1平方キロメートルで、七牧のなかでは最も小さいが、外周を囲む野馬除(のまよけ)土手や内部を仕切る勢子(せこ)土手等の牧の遺構が良好に残存している。
- 野馬捕りは牧場最大の行事で、毎年1回、放牧した馬を野馬込(のまごめ)に集め、幕府へ納める馬と農民や町民に払い下げる馬、繁殖のために牧へ返す馬を選別した。野馬込跡は野馬捕りの際に使用される土塁状の施設で、その内部は東側が馬を捕える「捕込(とっこめ)」、南側が幕府に送る馬や払い下げる馬を一時的に溜めておく「溜込(ためごめ)」、北西側が野に返す若い馬を入れる「払込(はらいごめ)」(分込(わけごめ))の三つの区画に分けられている。捕込は231平方メートル、溜込は173平方メートル,払込は140平方メートルの規模があり、近世の絵図と比較しても、ほとんど変わらない状況で良好に残されている。近世における牧場の様相を知る上で貴重な遺跡である。
下総佐倉油田牧周辺の航空写真
指定対象地の全景(北東より)
払込北辺土手
捕込開口部
写真提供:香取市教育委員会
2 墨古沢遺跡の史跡の指定について
種別及び名称
- 史跡「墨古沢遺跡」(すみふるさわいせき)(酒々井町)
所在地
概要
- 日本列島の後期旧石器文化前半期を特徴づける約3万4千年前の環状ブロック群である。環状ブロック群は、石器製作跡であるブロックが多数集まり、大きく円を描いて分布することを定義とする大型集落の一形態で、ブロック周囲には焚き火跡とみられる炭化物集中部も分布している。
- 墨古沢遺跡の環状ブロック群はおよそ南北70m×東西60mの範囲に及び、日本最大級の規模であることが判明した。石器組成は台形様(だいけいよう)石器、ナイフ形石器、削器(さっき)、彫刻刀形(ちょうこくとうがた)石器、楔形(くさびがた)石器、石錐(せきすい)、局部磨製石斧調整剥片(きょくぶませいせきふちょうせいはくへん)、敲石(たたきいし)、石核(せっかく)、剥片(はくへん)などからなり、狩猟具を含む石器製作等の作業が行われたことを示す。また、使用石材は群馬県域のガラス質黒色安山岩が7割以上を占め、また信州、神津島、高原山産の黒曜石や、主に北関東からもたらされたと考えられる玉髄(ぎょくずい)、トロトロ石、流紋岩(りゅうもんがん)などがあり、人々が広域を移動し、更に遠方の集団とも交流を行っていたことが分かる。遺跡周辺の古環境情報も豊富であり、人々が豊富な湧水に集まる動物資源を目的に集まって営んだ集落と推定される。
- 墨古沢遺跡からは旧石器時代の人々の移動や交流、生業活動や集団関係について知ることができ、後期旧石器時代はじめの人類社会の在り方を知る上で重要である。
墨古沢遺跡遠景の航空写真
平成11・12年度に実施した発掘調査の第7ブロックでの石器検出状況
平成27年度に実施した範囲確認調査の環状ブロック群の調査区全景
環状ブロック群から出土した主要な石器
環状ブロック群から出土した主要な接合資料
写真提供:酒々井町教育委員会
3 内裏塚古墳の追加指定について
種別及び名称
指定年月日
- 平成14年9月20日国史跡指定
- 平成21年7月23日追加指定
- 平成23年2月7日追加指定
- 平成26年3月18日追加指定
所在地
概要
- 5世紀中葉に築造された、墳長144m,後円部径80m、前方部幅90m、周濠を含めた全長185mをなす南関東最大の前方後円墳。後円部には2基の竪穴式石室があり、鉄製武器や農工具が出土している。周濠の一部を追加指定する。
内裏塚古墳全景
写真提供:富津市教育委員会
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください
報道発表用記事