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ホーム > 教育・文化・スポーツ > 歴史・文化 > 文化・文化財 > 文化遺産 > 「ちば遺産100選」と「ちば文化的景観」 > 「ちば文化的景観」(7)黒潮と山の恵みのゾーン
更新日:令和5(2023)年12月26日
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海からの強い風や潮を防ぎ、火災の延焼も防ぐために槇(イヌマキ)の生垣で屋敷の周囲を囲んだ集落景観である。生垣に使われるイヌマキは、南房総の温暖な気候に適した常緑針葉樹で、細かな葉が密集するため、防風・潮、防火の効果が高く、その生垣は海岸部の集落にとっては欠くことのできないものである。
海岸に面した漁村集落や門前町で、山が海に迫る、風光明媚な景色が広がり、安藤広重、浅井忠、青木繁、安井曾太郎等の近世・近代の画家により画題とされた集落景観である。また、鴨川市太海には、外房の風景を描く画家たちが定宿とした「画家の宿・江澤館(えざわかん)」があり、ここの離れで安井曾太郎は油彩画「外房風景」を制作している。(写真は、布良(めら)漁港)
清澄寺(せいちょうじ)、大山寺、小松寺、石堂寺、そして小網寺は、房総丘陵内の清澄・嶺岡山系、南房総市・館山市の丘陵内に建てられた古代・中世以来の歴史を伝える山寺である。山間に位置する伽藍は、国・県指定の仏像を本尊とする堂や塔と中世の墓・ヤグラ、石塔などからなり、周辺の自然と一体となったおごそかな霊場景観を見せている。
嶺岡山系の斜面と谷に広がる水田と集落の景観で、棚田の起源は不明であるが、中世までさかのぼるとも言われている。この内、大山千枚田は、急峻な斜面に作られた棚田景観が地元の努力で保存されており、首都圏でも貴重な景観をとどめている。また、嶺岡山系には、江戸時代、幕府直轄の牧が置かれ、日本酪農発祥の地として知られている。
磯に面した漁村集落で、西徳寺は県指定文化財の鎌倉時代の仏像を安置し、海岸付近には賽の河原の習俗が残される。小さな湾に面した、古くからの集落を舞台に貴重な習俗や文化財が残された景観である。
海岸には磯が広がり、その背後にはマテバシイが茂る丘陵が迫る。江戸時代中期以来、漁業で栄え、現在でもサバ節などの水産物加工が盛んである。漁村の背後に広がるマテバシイの森は、サバ節などの海産物加工のための薪として使用するため、江戸時代以来、植林されてきたもので、磯の風景だけでなく、水産物加工と密接に結びついた山の景観が残されている点に特徴がある。また、浜荻の名主宅には、江戸時代末期、浮世絵師・歌川広重が逗留し、周辺の景観を版画に残している。
誕生寺は、建治2年(1276)に日蓮聖人誕生の地に建てられたと伝えられる寺院である。大地震と津波の被害により、寺院は場所を変えているが、江戸時代以降は現在の地で多くの人々の信仰を集め、仁王門周辺には土産物屋や旅館が並ぶ門前町が作られている。当初、誕生寺があったとされる場所は、現在は海中に没しているが、その周辺の海域は、日蓮聖人誕生にまつわる不思議な言い伝えが残る「鯛の浦」で、浅海で群泳するマダイの珍しい生態を見ることができる。誕生寺とその門前町、そして伝説を残す鯛の浦が一体となった文化的景観を形成している。
地震の隆起によって海岸に面して作られた地形・地震段丘(じしんだんきゅう)と、それを利用した花畑景観で、地震段丘は、過去の地震の歴史を物語るとともに、お花畑として早春の房総観光の舞台となっている。お花畑は大正時代以来の伝統を持っており、一足早い春を届けてくれる。
房総半島では、江戸時代初期以来、捕鯨が行われ、安房地域には、鯨を供養した供養碑などが残されている。その伝統は、現在、南房総市和田浦に残されており、夏の捕鯨の期間には、ツチクジラの解体や、房総の珍味として有名な「鯨のタレ」を干す景観を見ることができる。
富津市と鋸南町の境界に横たわる鋸山には、古代以来の歴史を伝える日本寺があり、山中各所に千五百羅漢(らかん)の石像群が安置されている。この石像群は、江戸時代の1780年から21年かけて木更津の石工・大野甚五郎(おおのじんごろう)が製作したものである。また、鋸山は、房州石の産地となり、石を切り出した急峻で独特の景観が残される。
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