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更新日:令和5(2023)年7月21日
ページ番号:6020
今日の目を見張るような発展のかげには、先人たちのたゆみない歩みがあります。温暖な房総の地には、太古から人々が生活し、東国の重要な拠点として多彩な歴史がくりひろげられてきました。
番号 | 名称 | 所在地 | 内容 |
---|---|---|---|
1 |
千葉教会教会堂 | 千葉市 | 明治28年(1895)に建てられた木造平家建塔付きの洋風式教会堂。設計者はドイツ人ゼールで、意匠がよく、ゼールを知る資料としても歴史的価値が高い。 |
2 |
旧大沢家住宅 | 習志野市 | 寛文4年(1664)に建てられた長生郡長生村の名主大沢甚右衛門の住宅で、習志野市の森林公園内に移築されている。上総地方の現存民家では最も古い様式を持つ。 |
3 |
飯香岡(いいがおか)八幡宮 | 市原市 | 旧県社で、白鳳4年(648)の開基と伝えられる。諸武将や庶民の信仰を集め栄えた。本殿は規模も大きく、簡素で力強い室町末期の建築。拝殿も江戸前期の建立で、神社建築として貴重なものである。 |
4 |
鳳来(ほうらい)寺観音堂 | 市原市 | 鳳来寺の境外仏堂で、室町後期の建築と推定され、寄棟造りの茅葺きで禅宗様式を示し、西願寺阿弥陀堂とともに県下を代表する。 |
5 |
西願(さいがん)寺 | 市原市 | 明応元年(1492)の開山。阿弥陀堂は、開山直後の明応4年の建立で県内の禅宗様建築の中で最も本格的な様式を備え、屋根の軒の出が深く反りが優れている。かつては上部に金箔を押し、下は朱塗りで“光堂”ともいわれた。 |
6 |
正覚院(しょうかくいん) | 八千代市 | オシドリ伝説を持つこの寺は、保元年間(1156~59)の創建と伝えられている。秘仏の釈迦如来立像は、鎌倉後期作の清凉寺式のカヤ材寄木造りで、4月の花祭りの日に拝観できる。 |
7 |
中山法華経寺 | 市川市 | 文応元年(1260)迫害を受けた日蓮を迎えたのが開基とされている。広大な境内には、五重塔、法華堂、祖師堂など20余棟の堂宇が建ち、日蓮真筆の立正安国論など文化財が多い。 |
8 |
意富比神社(船橋大神宮)の灯明台 | 船橋市 | 灯明台は木造瓦葺きで高さ約12mあり、1・2階は和風、3階の灯室は西洋式灯台のデザインを取り入れた六角形のつくりとなっている。 |
9 |
戸定(とじょう)邸 | 松戸市 | 旧水戸藩主徳川昭武の私邸として明治17年(1884)に落成。木造平屋一部二階建(延床面積725平方メートル)。洋風を取り入れた芝生の庭との調和が美しい。建物と庭園はそれぞれ国の重要文化財と名勝に指定。 |
10 |
本土寺 | 松戸市 | 建治3年(1277)に開堂。1万坪の境内には本堂、鐘楼等が配され、四季おりおりの花木が楽しめる名刹。特に6月~7月には5万本のアジサイが咲き誇り「アジサイ寺」ともよばれている。日蓮直筆の書や梵鐘などの文化財も多い。 |
11 |
布施弁天(東海寺) | 柏市 | 大同2年(807)嵯峨天皇の勅願により空海が開基したと伝えられる。関東三弁天の一つ。利根川沿いの独立丘上に老樹に囲まれて、本堂、客殿、三重塔、総門などが立ち並んでいる。ハイキングを兼ねた参詣客も多い。 |
12 |
鎌ケ谷大仏 | 鎌ケ谷市 | 高さ1.8mの青銅製の露座の大仏。この地の豪商福田文右衛門が祖先供養のため安永5年(1776)鋳造した。 |
13 |
旧宇田川家住宅・旧大塚家住宅 | 浦安市 | 旧宇田川家住宅は明治2年(1869)の建築で幕末から明治にいたる江戸近郊の町家の形を伝えている。旧大塚家住宅は、代々漁業を営んできた大塚家の住宅で、建築時期は19世紀初めと推定され、漁家独自の特徴がある。 |
14 |
旧手賀教会堂 | 柏市 | 明治12年(1879)頃、布教活動の開始時に民家を移築、後に礼拝堂を増築したもので、首都圏の教会堂では最古のものと考えられる。昭和49年まで使用されていたが、老朽化のため町有化され修復された。 |
15 |
成田山新勝寺 | 成田市 | 天慶3年(940)の開基といわれ、境内に本堂、三重塔、光明堂、額堂等が散在する一大法境。文化財も多く、公園、図書館、資料館等が隣接し、全国から年間1,200万人の参詣客が訪れる。 |
16 |
宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺) | 成田市 | 義民佐倉宗吾の菩提寺。境内には、大本坊、鐘楼、宗吾霊宝殿、宗吾一家の墓等がある。寺域一帯が宗吾公園とされ、ぼたん桜も多い。 |
17 |
旧堀田邸 | 佐倉市 | 市街地に隣接する高台にあり、最後の藩主堀田正倫が明治23年(1890)に築いた純和風邸宅で、玄関棟、座敷棟、居間棟、書斎棟、湯殿、土蔵、門番所が国の重要文化財に指定されている。また、芝生の広がる庭園は国の名勝に指定され市民の憩いの場となっている。旧大名家の邸宅・庭園が共に残っており、全国的に見ても貴重な例として知られている。 |
18 |
武家屋敷通り | 佐倉市 | 宮小路町や中尾余町に武家屋敷が残り、特に宮小路(旧鏑木小路)は緑に囲まれ落着いた雰囲気が往時をしのばせる。通りに面して、旧河原家住宅、旧但馬家住宅、旧武居家住宅の3棟が整備公開され、江戸後期の藩士の住環境を知ることができる。 |
19 |
松虫寺 | 印西市 | 聖武天皇の第3皇女不破内親王(松虫姫)の病を治したといわれる薬師如来をまつった寺。本尊は、薬師如来坐像の左右に3体ずつの薬師如来像の小像群を配したもので、平安時代末期の作である。古い様式の七仏薬師は全国的にも珍しい。 |
20 |
滝田家住宅 | 白井市 | 滝田家は、手賀沼干拓以来この沼辺に住み、名主をつとめた旧家である。建築年代は、17世紀末頃とみられ、間取り、木割りとも名主階級の住宅にふさわしく堂々としている。 |
21 |
宝珠(ほうじゅ)院 | 印西市 | 貞観年間(859~77)の開基。今は観音堂を残すのみ。室町後期の建立と推定され“光堂”とも呼ばれる。外部は簡素だが、内陣は極彩色で飾られている。 |
22 |
結縁寺 | 印西市 | 神亀年間(724~29)の開基。本尊の不動明王立像は、嘉元元年(1303)の作とされ造像年月があきらかなことは貴重とされている。房総の不動明王像の代表作の一つ。 |
23 |
栄福寺 | 印西市 | 聖武天皇の時代(724~49)の開基。薬師堂は文明4年(1472)の建立の茅葺き寄棟造りの三間堂で、建立年代の明確な建造物のうち県下最古の建造物である。 |
24 |
龍角寺 | 栄町 | 和同2年(709)の開基と伝えられる。龍の頭を葬ったことから名付けられたという(龍伝説)。境内には、本堂、塔(国史跡)、仁王門の跡などがあり、本尊の薬師如来坐像(国重文)は白鳳仏で県下最古の仏像である。 |
25 |
香取神宮 | 香取市 | 2600年前、初代神武天皇18年の創建と伝わる神社。下総国一の宮として尊崇され、広い境内は老杉が茂り、桜の名所としても知られる。日本三名鏡の一つ国宝の海獣葡萄鏡など多くの文化財を有している。 |
26 |
観福寺 | 香取市 | 寛平元年(889)の開基と伝えられる古刹。関東三大厄除け大師の一つ。境内は広く、また収蔵庫にある十一面観音像他3体の懸仏はかつて香取神宮の本地仏であったもので造像銘があり、ともに鎌倉後期の秀作である。 |
27 |
重要伝統的建造物群保存地区 | 香取市 | 国指定史跡の伊能忠敬旧宅や県指定文化財の建物などが、利根川の支流小野川沿いや香取街道に軒を連ねる古い町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。 |
28 |
龍正(りゅうしょう)院 | 成田市 | 承和5年(838)に開山。板東33観音霊場の第28番札所。ケヤキやマツの老樹に囲まれて、諸堂が建ち並んでいる。このうち仁王門は茅葺寄棟造り八脚門で見事な造形美を見せる。また、本堂も入母屋造り銅葺きの堂々たる建物である。 |
29 |
大慈恩寺 | 成田市 | 天平宝字5年(761)唐の鑑真の創建といわれる。香取神宮に参向する天皇の勅使が泊った寺で、今も境内にある勅使門がその名残を留めている。また梵鐘は県の指定文化財となっている。 |
30 |
真浄寺 | 香取市 | 奈良時代、唐僧鑑真の開基と伝えられている。寺内には古仏像、古文書があり、境内に碑文も多い。 |
31 |
猿田神社と森 | 銚子市 | 大同2年(807)の創建と伝えられている。本殿は、三間社流造りで檜皮葺き。社殿を囲む森は、社叢として保護され、自然環境がよく保たれている。 |
32 |
常灯寺 | 銚子市 | 創建、寺歴は不明だが、常世田の薬師様として信仰を集めた。本堂は江戸時代前期の密教系仏堂の代表例。本尊の薬師如来坐像は平安時代後期の作とされ、ふくよかな顔、流麗な衣丈など時代の作風をよく伝え、保存状態も極めてよい。 |
33 |
飯高檀林(いいだかだんりん)跡と森 | 匝瑳市 | 檀林とは僧の勉学の場で、天正8年(1580)に創建され明治7年(1874)に廃檀となるまで多くの名僧を輩出した。講堂、鼓楼、鐘楼、総門等が建ち並び往時がしのばれる。森は深くスギの巨木が多数茂る。 |
34 |
日本ハリストス正教会と聖画 | 匝瑳市 | ロシア正教会系の教会で、日本における女流洋画家の先覚の一人である「山下りん」が描いたイコン(聖画)10面があり、美術史上注目されている。りんは、浅井忠と共に絵画を学び、後にロシアに留学した。 |
35 |
藻原(そうげん)寺 | 茂原市 | 開山は日蓮、開基は斉藤兼綱。宗門初唱の道場と伝えられ、後に東身延と称した。境内には、大堂、山門、仏殿などがあり、特に山門は、多宝塔形式で珍しい。寺宝として、古文書や日蓮真筆の「曼荼羅本尊」などがある。 |
36 |
橘樹神社 | 茂原市 | 「延喜式」に載っている古い神社。上総二の宮として人々の尊崇を集めている。所蔵の中世文書は、鎌倉時代のこの地域(橘木庄)の様子をうかがえる貴重な史料であり、県指定文化財になっている。 |
37 |
妙楽寺と森 | 睦沢町 | 嘉祥2年(849)慈覚大師の開基と伝えられる。多くの古仏像を所蔵し、なかでも、本尊の大日如来像は、ヒノキ材の寄木造り、黒漆塗りで平安末期の秀作である。寺域はスダジイの巨木に覆われ、自然景観を留めている。 |
38 |
笠森寺と自然林 | 長南町 | 延暦3年(784)の開基と伝えられ、板東33観音霊場の第31番札所として知られる。現在の観音堂は桃山時代の再建で、四方懸造りという全国でも珍しい特異な構造。釣燈籠など文化財も多く、境内一帯は自然林で鳥獣類も多い。 |
39 |
渡辺家住宅 | 大多喜町 | 渡辺家は、大多喜藩の御用達を勤めた旧家で、住宅は江戸末期の建物。19世紀中頃の上層商家の旧態をよく伝えている。 |
40 |
五倫文庫 | 御宿町 | 明治25年(1892)頃、御宿小学校長伊藤鬼一郎が、初等教育で使われた教科書(江戸時代の寺子屋、学制以後の日本及び世界の初等教育の教科書)を集め比較研究しようとしたのが起こり。現在も収集、比較研究活動が行われている。 |
41 |
浪切不動(大聖寺) | いすみ市 | 宝治2年(1248)地元の漁師の妻が海中で不動明王像を発見し、安置したことがはじまりと伝えられている。本堂は室町時代の建立と推定され、正面、側面とも3間の茅葺きの寄棟造り。様式は、禅宗様を主とした折衷様式を示している。 |
42 |
山田大門の鉄造仏頭 | いすみ市 | 首より上の仏像で高さ1.13m、頭頂はなく、頸部三道の下までの菩薩頭部である。工芸技術の優れた作りで、県下における江戸時代以前の鉄造仏の唯一の例である。 |
43 |
清水(きよみず)寺と森 | いすみ市 | 大同2年(807)の慈恵大師の開基。坂東32番霊場で、日本三清水の一つ。老樹に囲まれた境内には、本堂、仁王門、奥院、旧天門、鐘楼などがあり、縁日には遠近からの参詣客でにぎわう。 |
44 |
安房神社 | 館山市 | 「延喜式」にも名を残す県内屈指の古社で、安房国一の宮として人々の尊崇を集め栄えた。社殿は、明治の建物で新しいが、神明造り檜皮葺きの立派なものである。 |
45 |
那古寺 | 館山市 | 養老元年(717)の創建と伝えられる。板東33番霊場結願の札所。観音堂、客殿、阿弥陀堂、多宝塔、仁王門などを備え、うち多宝塔は東日本には数少なく貴重である。また、千手観音立像をはじめ、貴重な文化財が多い。 |
46 |
船形崖観音(大福寺) | 館山市 | 養老元年(717)の創建と伝えられる。本堂、観音堂、庫裏等を備え、断崖の途中にはりついたように観音堂が建つ。朱塗り、舞台造りの建物で壁面に十一面観音立像が刻まれている。観音堂からの鏡ヶ浦の眺望が素晴らしい。平成28年7月に平成の大修理が終わり、屋根を全面ふき替え、形も入母屋に。堂内は補強などを加え、舞台が新しくなり、全体を朱塗りに塗装した。 |
47 |
鏡忍寺 | 鴨川市 | 弘安4年(1281)の創建。日蓮宗本山の一つ。広い境内には、堂宇旧跡が多い。寺宝は日蓮自筆の富木殿御書はじめ多数ある。 |
48 |
日本寺と石造仏群 | 鋸南町 | 神亀2年(725)聖武天皇の命による創建と伝えられる。裏山には、上総桜井(木更津市)の石工大野甚五郎英令が21年かけ、門弟27名と共に彫った羅漢石造仏群がある。その他31m余りのわが国最大の大仏や梵鐘も知られている。 |
49 |
延命寺(えんめいじ) | 南房総市 | 永正17年(1520)里見氏4代実堯が、吉州梵貞和尚を開山第1世として建立し、里見氏歴代の菩提寺として隆盛した。江戸の宗奄という画工が書いた16幅の地獄極楽絵図も有名である。 |
50 |
石堂寺(いしどうじ)と旧尾形家住宅 | 南房総市 | 神亀3年(726)行基の開山と伝えられる。日本三石塔寺の一つ。本堂、薬師堂、木造十一面観音立像、多宝塔、山王宮など多数の文化財を有している。また隣接地には、江戸時代に建築された旧尾形家住宅が移築されている。 |
51 |
清澄寺(せいちょうじ) | 鴨川市 | 清澄山の山頂近くにある1,200年の歴史を持つ古刹。日蓮が立教開基した地と伝えられ、広い境内には多くの堂宇を備え文化財や珍しい動植物が多い。 |
52 |
神野寺(じんやじ) | 君津市 | 推古天皇の時代(592~628)聖徳太子の創建といわれ、伝聖徳太子作の軍荼利明王と薬師如来をまつる。鹿野山山頂付近にあり、近世には鹿野山詣での江戸市民でにぎわった。本堂、四脚門は建造物としても重要。 |
番号 | 名称 | 所在地 | 内容 |
---|---|---|---|
53 |
加曽利貝塚 | 千葉市 | 直径170mと130mの環状貝塚が8字形に連結した、日本最大級の規模で、縄文中期から後期の典型的集落跡。隣接した加曽利貝塚博物館には、加曽利貝塚から出土した資料が展示されている。 |
54 |
上総国分寺・尼寺跡 | 市原市 | 聖武天皇の勅願により全国60余国に建立された国立寺院の一つ。僧寺は全国3番目、尼寺は全国最大の規模をもち、奈良時代を代表する遺跡。 |
55 |
二子塚古墳 | 市原市 | 水田地帯にある主軸長102mの前方後円墳で姉崎古墳群を代表する古墳。5世紀中ごろの築造と推定されている。精巧な直弧文が施された石枕、銅鏡など多くの遺物が出土した。 |
56 |
姉崎天神山古墳 | 市原市 | 姉崎丘陵上に点在する姉崎古墳群中最大規模の前方後円墳。主軸長約125mで、4世紀末ごろの築造と推定される。古墳時代の房総を解明するうえで重要である。 |
57 |
堀之内貝塚 | 市川市 | 縄文後期から晩期の東西約225m、南北120mの馬蹄形貝塚で、発見された土器は、堀之内式土器と呼ばれ、土器の編年上の基準となっている。隣接地に市立市川考古博物館があり出土土器などが展示されている。 |
58 |
二十世紀梨誕生の地記念碑 | 松戸市 | 明治21年(1888)市内大橋の松戸覚之助氏によって発見、育成された二十世紀梨の誕生を記念したもの。 |
59 |
山崎貝塚 | 野田市 | 直径約130mの馬蹄形貝塚で、現在は史跡として公開されており、原形をよく留めている。縄文中期から晩期に至る長期間集落があったと推定され、各型式の土器や竪穴住居跡22軒が発見されている。 |
60 |
将門の井戸 | 我孫子市 | 平将門が開いたと伝えられる井戸。今も灌木の茂みの中に静かに水を湛える。付近には、将門を祭神とする将門神社がある。県北部から茨城県にかけて将門の伝承が多く、その一つと考えられる。 |
61 |
関宿城跡 | 野田市 | 関宿城は明治初期に取り壊されて、城跡も大部分が河川改修で消えたが、本丸跡に建つ城跡碑が名残を留める。城下町関宿を象徴する記念碑である。 |
62 |
獣医学実地教育発祥地 | 成田市 | 明治の殖産興業の一つとして、牧畜の振興を図るため三里塚に取香種畜場を開いたことに始まる。後に下総種畜場となり獣医学実地教育の場となった。 |
63 |
四街道地名発祥の道標 | 四街道市 | 四街道十字路にある明治12年(1875)銘の石の道標。四つの街道の中心であり、地名発祥の由来となっている。 |
64 |
本佐倉城跡 | 酒々井町 | 文明年間(1469~89)に千葉介輔胤が築城し、天正18年(1590)に小田原北条氏と共に滅亡するまで、千葉家の宗家の居城として、百有余年間9代にわたった。複雑に配置された郭跡や空堀・土塁・櫓台などが確認でき、戦国時代後期の築城技術などの様子をよく伝えている。 |
65 |
富里牧羊場跡 | 富里市 | 明治8年(1875)、殖産興業の一つとして、羊毛の国内自給を図るため、わが国で初めて牧羊場を開設し、米人指導者を迎え羊の飼育が行われた。西洋式牧畜発祥の地。 |
66 |
西の城貝塚 | 神崎町 | 縄文時代早期初頭に属し、わが国でもっとも古い貝塚。尖底土器や石斧などが出土したほか竪穴住居跡も確認された。 |
67 |
良文(よしぶみ)貝塚 | 香取市 | 利根川下流域では最大規模であり、貝層の堆積が厚く、3mを越す所もある。他の貝塚が、縄文中期で終るのに後・晩期まで継続している点などが注目され、出土遺物も豊富である。特に人物意匠をもつ香炉型顔面付土器は極めて珍しいもの。 |
68 |
宮谷(みやざく)県庁跡 | 大網白里市 | 明治2年(1869)大網宿宮谷の本国寺を庁舎とする宮谷県が設置され、明治4年の廃藩置県までの約2年9ヶ月余り行政を行った。管轄は、安房、上総、下総、常陸の一部。明治初期の本県における藩県の変遷を物語る地である。 |
69 |
智恵子抄の碑 | 九十九里町 | 詩人で彫刻家の高村光太郎の妻、智恵子が当町で療養していたことに由来する。「千鳥と遊ぶ智恵子」が全章刻まれている。 |
70 |
蕪木(かぶらぎ)古墳群 | 山武市 | 朝日ノ岡古墳を主墳とする前方後円墳4基、円墳15基の古墳群で、6世紀の築造とみられる。木戸川流域は有数の古墳地帯となっており、この古墳群はその一つで、6、7世紀の頃この地域を支配していた武社の国造の強大な勢力が推定できる。 |
71 |
殿塚・姫塚と芝山古墳はにわ博物館 | 横芝光町・芝山町 | 横芝光町から芝山町にかけての一帯は県下でも有数の古墳群地帯で約500基あるが、とりわけ大型な前方後円墳が、2基隣接して並び殿塚・姫塚といわれている。全国でもまれな形象埴輪の行列がほぼ完全な状態で発見され、葬列を表わすものとして有名である。 |
72 |
史跡長柄横穴群 | 長柄町 | 古墳時代のお墓として、36基が史跡として指定されている(国指定)。玄室(遺体を安置した場所)が、高く造られ、大形で全国的にも例の無いこの地域特有の横穴墓である。壁面や天井部には線刻画も多くみられる。築造は7世紀末から8世紀初頭とみられる。 |
73 |
能満寺(のうまんじ)古墳 | 長南町 | 4世紀初頭の築造と推定される前方後円墳。全長73.5mで後円部から埋蔵施設として舟形木炭槨が発見され、副葬品として銅鏡、銅鏃、ガラス玉等が出土した。 |
74 |
官軍塚 | 勝浦市 | 明治戊辰戦争(1868~69)で、旧幕臣の榎本武揚は北海道函館で官軍に最後の抵抗を試みた。この時、鎮圧にあたる熊本藩援軍が米国船ハーマン号に乗船し北海道に向ったが、勝浦川津沖で大暴風雨に遭って難破し230余人の死者を出した。この遭難者を埋葬供養したところ。 |
75 |
上総大多喜城跡と県立中央博物館大多喜城分館 | 大多喜町 | 徳川家康の四天王の一人、本多忠勝が10万石で封ぜられ、築城した。土塁が残るほか、二の丸跡には、大井戸と薬医門が往時の面影を残す。本丸跡にある大多喜城(県立中央博物館大多喜城分館)が当時の姿を伝えている。 |
76 |
日西墨三国交通発祥記念之碑 | 御宿町 | 岩和田の山の上に立つ高さ17mの御影石張りオベリスク型の碑。慶長14年(1609)御宿沖で難破したスペイン領フィリピン総督ドン・ロドリゴ一行を村をあげて救助にあたり、これを時の大多喜城主が江戸に伝え、この史実を記念したもの。 |
77 |
源頼朝上陸地 | 鋸南町 | 治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れた頼朝が、相模国を発して小舟で安房に渡航したときに上陸した地点。勝山海岸の北にあり、今は陸続きであるが、かつては竜島という小島であったという。 |
78 |
里見氏の墓 | 南房総市 | 里見氏の始祖、義実と2代目成義の墓が菩提寺である杖珠院に所在している。里見氏初代義実は嘉吉元年(1441)安房に上陸し、文安2年(1445)に安房国全域を平定したと伝えられ、房総里見氏の歴史を知るうえで貴重な資料である。 |
79 |
日本酪農発祥地 | 南房総市 | 里見氏が創設した牧場で、江戸時代に幕府の直轄牧場になりインド白牛を放牧、その乳を使ってバターを作った。現在、牧場の一部が嶺岡牛研究所になっている。 |
80 |
金鈴塚古墳 | 木更津市 | 6世紀末の前方後円墳で墳丘長約90m。後円部の一部と横穴式石室が保存されている。純金製の鈴の他多くの副葬品が発見された。 |
81 |
九十九坊(くじゅうくぼう)廃寺阯(はいじあと) | 君津市 | 7世紀末、白鳳時代に創建されたと考えられる古代寺院跡。伽藍配置は法隆寺式と想定されるが確実ではない。古代の歴史を知るうえで貴重な史跡。 |
82 |
弁天山古墳 | 富津市 | 全長約87.5mの大型の前方後円墳。後円部に竪穴式石室があり、3枚の蓋石のうち中央の蓋石の左右には、約20cmの縄掛突起様の造出しがあり、全国でも極めて珍しい様式とされている。築造は5世紀後半と推定される。 |
83 |
内裏塚(だいりづか)古墳群と飯野陣屋跡 | 富津市 | 内裏塚古墳は、前方後円墳11、方墳7、円墳30基から成る。主墳の内裏塚古墳群は、南関東最大の規模(長さ144m)の前方後円墳である。飯野陣屋は、江戸時代初期に保科正貞によって築造されたもので、日本三陣屋の一つといわれる。陣屋内に内裏塚古墳群の一つである三条塚古墳が所在している。 |
番号 | 名称 | 所在地 | 内容 |
---|---|---|---|
84 |
成田街道 | 市川市~成田市 | 日光道中の武蔵千住宿から分かれ、成田までの街道で3泊4日の旅程。佐倉藩、多古藩、小見川藩が参勤交代などに使用するほか、江戸時代後期には、成田山新勝寺への参詣客が通行するなど通行量が多く房総を代表する脇往還。 |
85 |
御成街道 | 船橋市~東金市 | 慶長19年(1614)徳川家康が鷹狩りを行うことを名目に作らせた街道。船橋から東金までの、ほぼ一直線の道には、今も長屋門や御茶屋御殿跡、高札場跡が残る。 |
86 |
水戸街道 | 松戸市~我孫子市 | 江戸日本橋から水戸を結ぶ街道。五街道に並び重要視されていた。県内では、松戸、小金、我孫子などの宿があった。今は都市化され、道標・井戸・町並みなどに往時の面影がわずかに残る。 |
番号 | 名称 | 所在地 | 内容 |
---|---|---|---|
87 |
千葉常胤(つねたね)と亥鼻城跡 | 千葉市 | 大椎城(千葉市緑区大椎町)に生まれ、源頼朝を助け鎌倉幕府樹立に大功を立てた。亥鼻城によった千葉氏最盛期の城主。城跡には現在、市立郷土博物館、県文化会館、県中央図書館などがあり“文化の森”と呼ばれている。 |
88 |
青木昆陽(こんよう)と甘藷(かんしょ)試作地 | 千葉市・九十九里町 | 享保20年(1735)不動堂村(九十九里町)と馬加村(千葉市花見川区幕張町)で甘藷(サツマイモ)を試作し、その普及にも努め、大凶作から庶民を救った。 |
89 |
佐藤泰然(たいぜん)と旧佐倉順天堂 | 佐倉市 | 泰然は、長崎で学んだ後、江戸で開業し名を馳せていた蘭医で、天保14年(1843)に佐倉に移住し、佐倉順天堂を創設した。佐倉順天堂は、最先端の外科手術や種痘などを行うだけでなく、多くの優れた門人を輩出し、日本近代医学の発祥の地の一つとなった。建物は、現在記念館となっている。 |
90 |
浅井忠 | 佐倉市 | 明治洋画界の先覚者の一人。わが国初の洋画美術団体である明治美術会の創立に参加。後に東京美術学校(現東京藝術大学)等で教鞭をとり、洋画の普及に努めた。 |
91 |
津田梅子 | 佐倉市 | 女子教育の母。8才でわが国初の女子米国留学生となり、後に今日の津田塾大学を創立した。 |
92 |
伊能忠敬と旧宅・記念館 | 香取市・九十九里町 | 忠敬は、小関村(九十九里町)に生まれ、17歳で佐原の伊能家当主となり、家業の酒造業のほか公益にも尽力した。50歳で隠居後、江戸で天文・暦学を学び、日本全国を測量して歩き、我が国初の実測日本地図を作成した。その旧宅は国指定史跡に指定されており、記念館には、忠敬が作成した地図や遺品が展示されている。 |
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大原幽学と旧林家住宅 | 旭市 | 幽学は、44才で房総に来遊し、長部村(旭市)を中心に後半生を農民教育と農村改革に捧げた。林家住宅は門人であった林伊兵衛が幽学の設計、指導のもとに住宅を建築したもので大原幽学史跡公園内に移設し、復元された。 |
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国木田独歩と句碑 | 銚子市 | 銚子市に生まれた詩人、作家で、自然主義文学の重鎮。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」等の著書がある。海鹿島海岸には、「なつかしきわが故郷は何処ぞや彼処にわれは山林の児なりき」と刻まれた文学碑がある。 |
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伊藤左千夫の生家 | 山武市 | 近代歌壇の巨匠。短歌「アララギ」の発刊を主宰。「野菊の墓」等の作品で良く知られている。門人から優れた歌人たちを輩出した。生家が同町殿台にあり、公開されている。 |
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荻生徂徠(おぎゅうそらい)と勉学の地 | 茂原市 | 江戸時代中期の儒学者で、古文辞学を唱え、当時の思想に大きな影響を与えた。寛文6年(1666)江戸に生まれ、14才の時父方庵が咎を受け、一家で上総国本納村(茂原市)に移り住んだ。この地で勉学にはげみ、後日大儒者となる基を築いた。 |
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彫物大工「伊八」 | 鴨川市 | 江戸時代中期から関東一円の神社仏閣に装飾彫刻を施し、5代に渡り引き継がれた。初代は名人「波の伊八」といわれ、特に波涛、竜などの装飾に秀でていた。 |
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古泉千樫(ちかし)と生誕地 | 鴨川市 | 明治19年(1886)吉尾村(鴨川市)に生まれた。伊藤左千夫の下で茂吉らと「アララギ」の発展に尽くした。平淡の中にも実感に即した歌風により日本近代短歌史上不滅の地位を築いた。 |
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菱川師宣と記念館 | 鋸南町 | 房州保田(鋸南町)で縫箔刺繍を業とする吉左衛門の子として生まれ、浮世絵師として大成した。木版画の分野に新しい様式を生み出し、一般庶民の風俗や遊女、芝居の描写に新境地を開いた。 |
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日蓮と誕生寺 | 鴨川市 | 鎌倉時代の僧で、法華経を説き、日蓮宗を開いた。誕生寺は、建治2年(1276)に弟子の日家が聖人の生まれた地に建立した。寺は、たびたび災厄にあったが、今でも貴重な文化財が多数所蔵されている。 |
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